昭和42年01月31日 朝の御理解



 信心を進めて行く上に、必ず様々な、その難関というか壁というか、その難関を切り抜ける、又はその壁を打ち壊して前に進むと。壁にぶっつかるといったような事申しますが、そのぶっつかったその壁を貫いていくというところに一つの元気な心というものが必要です。これはあの信心だけのこっちゃありますまいけれども、特に信心には段々分からせて頂いた度に分からないところに出てくるのですよ。
 だから壁にぶつかったという事は、もうそこまで信心が進められて来たという事なんです。私は分からなくなった。信心がどうも分からなくなったとこういったような事をよく申しますが、分からなくなったところに出て来たという事は、もうそこまで進んだ事です、ですからそこん所を御礼申し上げて、そこんところを何度もこの壁を打ち抜いて行くか。打つ貫いて行くかというところに、次の信心の段階というか、次の信心の視野が開けてくるのですね。
 あそこんところを一つあの、大事にしていかなきゃなりませんです。実意。私今朝からあの、こんな夢を頂いておった。そのもう古風な壁ですけれども、その壁をですねもう取り壊さなければならない。だからこん壁は記念にあの写真に撮っとこうと。それで、あのそこに、この壁を記念に撮るけんで、誰かがそこにあの、前に一人立ちなさい。その一緒に映すからといよった。その一緒に映っておる、映ると言っておるのがあの、鳥栖のあの上野さんの二番目の息子ですかね、上野勝美さんというがおります。
 美しく勝と書いて勝美。ならまだ四つ五つくらいの子供のような風です。その子供をその壁の前に立てて、その写真、いわゆる撮影をやっているんです。それでこの壁を取り除かなければならんから、これで記念に撮っておこうとこういうのです。そして、ただ今申しましたような御理解を頂いたのです。私共の前に立ちはだかるようにしてあるところの壁、壁にぶつかるのです。
 ですからぶつかることは実を言うたら有り難いことなんです。信心、何の稽古でも続けておりますと、一つの分からなかった、分からないところにそのぶつかるん、そういう時に一つの力がいるわけです。そしてそれをいよいよ、それを突き抜け、切り抜けする事は、それを後で考えますと、あぁいう時にあぁいう場合に直面した時に、あそこをああいう風に切り抜けたと。
 自分の信心のふり、過去を振り返って記念に撮っておきたいような感じが致します。ね、その壁をだから取り壊す前に記念に写真を撮っておこうというのはそのことだったとこう思うのです。皆さんでも考えてごらんなさい。十年なら十年信心を進めて行くうちに様々なところに迷いが起こったり、ね、難しい所に起こったり、又はこれだけ信心しておるのに、かえって信心の手が落ちたのじゃなかろうかと思われるような。
 ならこりゃもう自分も駄目じゃなかろうかというようなところに直面する事があるでしょうが。けどもそこんところを、まぁ元気な心を、で突き抜かせて頂いたら、先にはこういう又信心が開けてきたと。そこに新たなことが一つの良い思い出として残る。そしてその思いでの写真を、やはりこう記念にとっておかなければいけん。そして、又後から信心のない人、信心を進めて行く人達の上にです。
 あんたが今そこを通っているですか、尊いことですよと、そこを通り抜けなさい。必ずよい道が開けますよ、という事を確信を持って人にも伝えることが出来るのです。ここんところを大事にしなければならない。そこで、その上野勝美さんですね。その上野勝美さんが何故その記念の写真を写すのにです、その壁だけを写しとけばよかろうけれども、その上野勝美さんを一緒に写しておるということからです。
 上野と言うことは、まぁ最高のとこう思いました。勝美というのは美しく勝つということだと思いました。そこんところを美しく切り抜けていくという事。ですから同じ例えば勝負事でもそうですね。ただし勝ちさえすればよいという勝ち方とですね、美しい勝ち方があるでしょう。誰が認めても、誰が見てもです、本当に立派な勝利であったと。それこそ敵も見方もほめすらすような勝ち方があるでしょうが。
 ところが卑怯な勝ち方をする。勝っためには手段を選ばない。そういう勝ち方。ね、ですから信心させて頂く者、そこんところを一つ私は美しく勝っていかなきゃならない。私は最高の美しく勝つということ、どういうことかというと、打ち向かう者には負けて時節に任せて、勝つことだと思うです。それを俗には、負ければ勝ちとも申しますですね。所がなかなか自分で勝てる自身を持っておるけれども。
 負けておると言うことは、勝つ以上に、実を言うたら至難なことです。難しいことです。そこんところを、私達がある場合によっては、馬鹿と阿呆で道を開いて行く。道を貫いて行くのです。馬鹿と阿呆では、私のみかたになって神様が順交て行く。神様だけしかご承知がないのだから。今私がここで赤面弁慶になってから、勝ったところでです、勝てるんだけれど、そこんところをです、ね、
 相手も助からなければならない。ためにはそこで負けておいて、相手を助けておくということもです、これは信心です。ね、打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。打ち向かう者には負けて、時節には。いわば時節が果たして下さる。神様が果たして下さる。そういう勝ち方。そういう貫き方。純粋の信心から言う勝ち方はそれだと私は思うのです。そして勝ち抜いた時にはです、一つも気張ったものがない訳ですよね。
相手も本当におかげを受けておる。自分もなおさら神様の、なるほど神様が時節に任せよと仰るが、お任せしきっておりゃこういう風に分からせても下さるんだ、勝たして下さるんだということをですね、思うですね。もう本当にこりゃもう、条件に及ばなんごと体験させて下さるもんですよ、ここんところをおかげ頂いておりますと。まぁ私昨日は、昨日一日のことをじっと思うて、一日のことじゃない。
 ある出来事のことを思うてみましてですね、まぁ言うなら丁度4、5年間。まぁある意味私は、あの辛抱しておったことがあるんです。けれどもちゃんとその難儀何というか。その先方も頭を下げて、先方も私のところに、いわばじを低うして、そのいわば、ここでなからなきゃ出来ないことを頼みに来ておられる。ね、それで私は勝ったとい]う気持ちよりも、はーおかげを受けてよかったという気持ちがいたしました。
 そこもですね、相手も助かっており、助かる事が出来りゃ。こちらもその勝ったといったような、何かその勝利感と言うか、そういうもんじゃなくてですね、おかげ頂いて良かったというものになるんです。やはりそれに、やはり丁度5年間かかっているんですね。打ち向かう者には負けて時節に任せと、そういう頂き方。そこんところをですね、ただ弱い、弱い心でです。
 もう自分な腹立たん、あの人には負けるから、それでは壁を貫くことにはなりませんのです。そういう信心のそういう壁を貫かせてもらう。それであったら、何時まで経ってもやはりだらしのない事になってしまいましょう。ね、ですから、そしてそういうような、はー本当に5年前にあぁ言うことがあったということをです、私の心の中に、記念に写真が撮れてある。
 しかもその前に、上野勝美さんを立ててからその写しておる。ね、神様の願いのままに、神様最高の、いうなら勝ち方。美しい勝ち方。そこに、あの何時かも頂きましたあの、ガンジーの無抵抗主義といったようなことを申しますが、あの無抵抗主義ではないと。ね、やはりそこの貫くものがあるんですね。日々の上にも、信心を進めて行く上に、私共が壁に直面いたします。
 その壁を、しだごだにしたんではですね、もうそれから先は進まんです、信心が。そういう人がどのくらい沢山あるか分からんと思うですね。やはり、壁に直面したという事は、もうそこまで言うならば信心が進んだことになる。そこまでは信心が到達した訳なのですから。そのことをまずお礼申しあげさせて頂いて、その壁をいかに、私共が日頃の信心の稽古に、いわば物言わせて。
 この壁を打ち抜けて行くか、貫いて行くかということをです、工夫させてもらう。そして、美しい勝ち方。最高の美しい勝ち方というのは、ここん所、打ち向かう者には負けて時節に任せよ、といったようなです、これは相手が人とかの何とかといってる場合じゃない、場合も沢山ございますよね。信心の一つのその壁ですから。そこんところを、もう本当に自分にはそこん所分からんのだけれどもです。
 それこそ成り行きに任せて、自然に任せて、そこを貫いて行こうとする私は願いが必要であるとこう思うですね。そしてそれを私共の、信心の過去のことを、あれもおかげであったこれもおかげであったと。思わせて頂けれる材料にしていきたい。本当にあんな事が困った事の、あったことは、本当に私の一生のマイナスであったといったような事になってはなりません。
 一切が私のおかげを頂くためのプラスである。過去の一切が生きてくる。ためには、私共その美しい壁の打ち抜き方というものを心得ていかなければならん。ね、どうぞ打ち向かう者には負けて時節に任せて、勝って行く勝ち方こそ、一番神様の喜んで下さり、いや自他共に助かって行けれる、勝ち方であると私は思うですね。
   どうぞ。